昭和48年04月28日 朝の御理解
御理解 第13節
「神は向こう倍力の徳を授ける。」
神様へ十の向かい方をすれば、二十の徳を授けて下さるといったような意味なんです。ですから、これは本当に神様に向かうておらなければいけんのです。只お参りしよる。一生懸命に、朝参りなら朝参りをしよる。もう十年も十五年も二十年も続いたと言う事は、神に向かうと言う事にはならんのです。只おかげを受けたしと言うて向こうのであっては、一概には言えませんけれども、それでは本当の向かい方ではない。
神に向かうというのは、どこまでも信心に向かうと言う事であり。わが心が神に向こうのを信心と言うのじゃと仰るように、わが心が神様へ向こうて近づいて行くという向かい方でなからなければならないと言う事。そういう向かい方に倍力の徳を授けると仰るのです。神様へ向かえば神様が一足でも、無駄にはさせんと仰る。あれと意味が違うわけですよね。神様の方へ向こうてくりゃ、合楽の方にというて一歩でも足を向けたら、向けた方のおかげはやると仰るのです。
だからそういう向かい方じゃない。どこまでも神は向こう倍力の徳というのは、神様へ向かう、神様へ向こうたあり方。いうならばわが心が神へ向かうというのを信心というのじゃという向かい方でなからなければ徳は受けられないと言う事。そこで色々に徳を授けて下さるという事の上に、分からせて頂く事は、一切を神様にお任せした生き方と言う事等は、神様へ心を向けて、向かいきっておらなければ出来る事じゃないですね。これは徳を受けるです。
だからこれは一切がですよ、自分の都合のよか事だけは神様にお任せするけれども、他の事は自分のよかごとするというのじゃないです。例えば私が神様から、色々とお知らせを頂くようになって、あそこへ二、三年間の状態というものは、もう本当にいうならば、神様任せです。もう一切が神様任せである。「神様、そんな事しよると人から笑われます」というような事でもです。やはりそこにはおかげとか、おかげを受けるとか、そげな事は問題じゃない。只神様任せに動いておると言う事。
例えて申しますと、甘木の初代がお徳を受けられたのは、今日の御理解から頂きますとです。御自身仰っておられたそうですけれども。「神様が人形使いで、私は人形じゃ」と仰っとったそうです。だからもう手を上げと仰りゃはい。足を上げと仰りゃはい。右向けと仰りゃはい。左向けと仰りゃ左を向いたというのです。成程お徳を受けられたはずだと思います。これは神様に向かい切っておらなければ出来んのです。
もうそこにはね神様の仰る通りしよったら、どんなになるじゃろうかと言う様な不安があってはね、任せられるもんじゃありません。皆さんここでは、親先生任せといったような事を申しますけれども。それは自分で右にしてよいやら、左にしてよいやら分からないような時だけというのが普通ですね ここで任せると言っておられるのは。だから私は神は向こう倍力の徳を授けると仰る、お徳を受けると言う事は、只教会にお参りをしよる、もう永年お日参りをしよる。
御祈念も一生懸命しよると言う事で、神様は倍力の徳を下さるとじゃない。神様へ向かえばです、それはおかげは下さるでしょう。一足でも無駄にはさせんと仰るのじゃけん。おかげは下さろうけれども、倍力の徳を授けると仰る所にはなってこない。これは私自身の事を思うてみてです。本当に神様任せと言う事がです、もう一切を任せきると言う事がお徳を受ける、いうならば早道だなと。まぁ私の事とそんなら甘木の先代が、神様が人形使いなら自分は人形だと。
自分はもう操り人形だと。操られる通りに任せきったあり方になられたと言う所に、あの大徳を受けられた。成程倍力の徳を神様が授けなさったなと思うのです。同時に私は神様へ向かうと言う事がです、所謂真の信心を分からせて貰いたいという、信心に心が向くと言う事です信心に心が向く。教主様のお詠一集の中にこういうお詠がありました。「学ばずして、教ふる事は、食わずして走るごとしと言いつつなげく」というのです。「学ばずして、教ふる事は、食わずして走るごとしと言いつつなげく」と。
これは私共の場合、皆さんでも体験される事でしょうけれども。自分が生き生きとした信心修行に取り組んでおる時には、必ず生き生きとした体験が生まれてくるでしょう。だからお話をさせて頂くでもです。その実感を今自分の感じておる実感が、そのまま話になるのです。私は学ばずして教える事と言う事は、そう言う事だと思うです。成程永年信心しよるから、まぁ和尚のごたる事も言い習うた。大体の事は話せる。それこそ物言えば唇寒し秋の風であってです。
どんなに美言をもって、人にお話をさせて頂いてもです。話た者自身がさもしいです。私共にも体験があります。本当にどんなに話が上手な人でも、信心話というのは信心をさせて頂いて、生き生きとした修行させて頂いておるとです。一日の中に生き生きとした、あぁ神様のお働きの中に、昨日あたりの御理解から頂きますと、神様の御守護の中にある事を実感するのです。それが有難いのです。
その有難いのがお話になるのです。いうならば、ここの所を修行せずして、とても信心のお話なんか出来るもんじゃないと言う事です。只言葉を並べておるだけで、相手にも伝わろう筈もない。言いながら自分自身、それこそもの言えば唇寒し秋の風であります。寂しいです。自分に内容のない事を口に出して言うておったんでは。それはです丁度食わずして走るごと難しか。
お腹ペコペコで走る事は大変きつい事である様にです。自分が日々さらな信心生き生きとした信心させて頂く所から、生き生きとした体験は必ず生まれるんだと。生き生きとした御教えを頂き、生き生きとしたその御教えを本気で行ずる気になるとね、そこに生き生きとした体験が絶対に生まれるのです。形の上に又は心の中に。だからその事を話をすると自分も有難い、聞く者にも伝わるという訳です。だから信心の修行のない時に何か一つお話をして下さいなんて言われる位に難しい事はないと言う事。
それは丁度食わずして走る如きものだという程に難しい。皆さん胸に手を置いてごらんなさい。毎日お参りさせて頂きよるけれどもです。本当に今日は有難い一日であったと、その有難い事を一言でも二言でもです、神様のそこに生き生きとした働きをです、感じてそれをそんなら家内に話し、又主人に話し家族中の者にでも、信心ちゃ有難い事ねぇ、今日はこうこうじゃったと言う様に、話の出来ん様な一日であったら、いかに生き生きとして、信心修行に取組んでいないかと言う事を悟らにゃいけません。
それではね今日言う、神に向かうと言う事にはならんのです。倍力の徳を授けると仰るのはね、そういう教えに取り組んで、生き生きとした話の一つも出来るくらいな、本当に生き生きと、自分の心の中にありがたいなぁというものが感じれれるような信心の進め方の上には、必ずお徳が受けられるです。今日は、神は向こう倍力の徳を授けるとおっしゃる事は、只参りました拝みました、朝参りをもう十何年も続けとりますと言う事ではないという事をです。
心が本当に神に向こうておる。神に向かって進んでいきよる。又は生き生きとしてその教えに、私共の心が向かって取り組んでおると言う事です。その証拠には生き生きとした体験が、生き生きとした心が、心に何とはなしに有難いものがです。例えばそんなら夫婦でお話をする時に、どんなに考えなも有難い事ねと、こういう事なんです。その有難いという、その心が徳になっ行くのです。だから今日はお徳を受けると言う事はね、いうなら完璧に神様任せになるという生き方。
甘木の親先生の例をとりました。私の修行中の時分の例をとりました。是なら必ず徳を受けるです。同時に神様へ向かうと言う事は、愈々信心を頂くと言う事の為に、教えを頂き、教えに本気で取り組むと言う事。そこから生まれてくる喜び、体験そういう体験が日々生まれておるならば、もうそれはいちいち徳の蓄積というか、神様は向こう倍力の徳を授けておられる姿ですから、これが続けていかれれば有難い事です。
昨日井筒屋から、こんなに大きな何か来ました。何だろうかと思うて、開けてみた所が今日と明日と、支那の大きな宝石商が、二軒が合同して宝石展を開くわけです。だから是非見においで下さいと言う。指輪一本が六千万ち言う。六千万円。いわばお目玉商品と言うのであっても、やっぱり二、三万はします。色々見せて頂きよりましたら、家内が幾つも十本くらい頂いてるでしょか。
色々頂いとるととよう似たつが、幾つもありますもん。それで夕べ私は遅うから、お前はちょっと指輪ば持って来てみれと言うてから見ましたら、是はと同じ様なのが幾つもありますよね。例えばサファイアなんか頂いておるのは、周囲にダイヤが散りばめてある。家内が頂いておるのにも。それはそれこそ名も知らない、色々な宝石がよう似たつがあると思うてから見とりましたからね、夕べ家内に出させて見せて貰いました。
そしてお前は明日、信心実習会で行くけん、いっチョコればはめて行けと言うてから、私が選ってやったんですけれどもね。サファイアです。ダイヤをこう散りばめてあるです。勿論小さいですけれどもですね。しかし私は考えさせて頂いてですね、とても私がいくら儲け出ぇたっちゃです、とてもこげな指輪を買うては、とても与えきらんですね。大体根はこすかっじゃけん。嫁後にでもそげな他所でも、買うてやろうごつなかっじゃけん。でも、神様が下さるとじゃもん。
それは何ですかね翡翠もあります。家内が頂いとるとに。ここに出とるととよう似とりますもんね。こらカラーで写ってあるとに。でもこげな良かっじゃありますまい、こう言うお大きなっじゃありますまいけれどもです。やっぱ金にするなら大分方あるじゃろうと思う様なものをね、いくらも頂いておる。いうなら取り替え引替えしてもええばってん、あの人が絶対自分が、あんまり好かんですはめるとを。それはやっぱり手の綺麗な人でないとですねやっぱり似合わんです。
ギラギラするとをはめたっちゃ手が汚いなかならば、まるきり私が手はこげん汚かでずらと言わんばっかりの様なもんですから。やっぱ好かんじゃろうと思いますたい。けども今日はいっちょどうでんこうでん、はめて行けと私がサファイアのダイヤの散りばめたつを出してやっとるですけれど、ちゃんとはめて行くでしょうねと言うがですね。例えばそんなら、どういう六千万円もするごたる指輪をはめたっちゃです。
そのはめておる人がですしかたぁもなか人がめはとると、あれは偽物じゃろうとしか言いはしませんよ。ですからそういう素晴らしいものを身につけさせて頂くならば、身につけさせて頂く、その人自身が素晴らしゅうならなければ駄目だという事。どんなに金光教の信心が素晴らしい。いや、合楽の信心は有難い、素晴らしいと、皆さん言うてもです、合楽の信心を身につけておる皆さんが、今日の御理解じゃないけれども、わが心が神に向こうのを信心と言うのじゃと。
打ち向こうておられる、その打ち向こうて行くに従って、身に徳がついて行きよるというような、徳とも思われるようなキラッと光る様なものががです、ないならばです、あれが合楽の信心かという事になるのですよ。だから私はどうでもおかげを頂かせて貰うてです。本当に神様へ向かうならば、お徳の受けられる様な向かい方をしなければいけません。そこに合楽の信心が光ってくる。自分自身の心の中も光ってくる。それで成程あれなら、ほんなもんじゃろうと言う事になってくるのです。
今日あたり婦人部の皆さんが、信心実習をなさるというならです。車に乗って行っておる、ここの近所の方達でもそうですが、やっぱり信心頂かっしゃる小母しゃん達じゃけん違うなと、わざわざその為のものであってはならんけれども、何とはなしにキラッと光ようなものがね、お互いなからなければ可笑しい。どこの団体かと思うたら、聞いたら合楽の婦人部の方達げなと、言われる位なものが何かなからなければ。
そういうものを問題は、日頃頂く事の為の信心を目指さなければ。何十年神様に拝みよります、参りよりますと言うても、お徳は受けられないと言う事。今日私は、本当に倍力の徳を授けると仰る。私は十年も参りよるけれども、徳らしい徳は受けとらんと言うならばです。いわゆる神様へ向かう焦点が違っておると悟らせて貰うて、今日私が幾らも甘木の先生の、神様任せになられる事によって。
徳が受けられるという生き方と。愈々信心にならせて頂くと言う所から、生き生きとした体験も喜びも生れてくる。それが徳の蓄積になるんだと言う様な事を聞いて頂いたわけです。折角合楽の信心が、素晴らしい宝石にも似たような信心と仮定いたしますなら、そういう素晴らしい信心を頂いておる皆さんがです。あれは偽物じゃなかじゃろうかと、思われる様な事であっては、神様に対しても相すまん事になるとうい事を聞いて頂きましたですね。
どうぞ。